■ 夢限回廊 / 酔徒 「—————え?ごめん、よく聞こえなかった。 ……もう一度言ってくれないか?」  それは、珍しく秋葉が晩酌を勧めてきた晩のことだった。 期末テストが終わったばかりで疲労がたまっていたせいか、酔いが予想以上に早く回り、すでに視界もぐらついてきている。  クス、と秋葉が笑う。  その冷酷な笑みに、情愛の感じられない瞳に、ぞくりと背筋を冷たいものが走る。  それはまるで、遊びあきたオモチャを見ているような、ツメタイヒトミ。  いや、秋葉は俺の妹。例え血は繋がっていなくとも、大切な家族であることに違いはない。  だから、これは酔いによる誤解 「あら、もう薬が回ってしまったのね。  琥珀、ちょっと量が多すぎたのではなくて?」  琥珀さんはいつもの調子で答える。 「ええ、そうですね。  恐らく、アルコールと同時に摂取したことで体内に取り込まれる速度が変わってしまったんでしょう」  ———いや、目の光がどこか違う。  俺のことを見ているのか、それとも虚空を見つめているのか判らない虚ろな瞳。  いったいこの二人は何を言っているんだろうか?  言葉の一遍だって理解できない。  だってそんなことはありえないじゃないか……。 「理解できていないようね。  いいわ、もう一度言ってあげる。  わたしのために、兄さんには死んで欲しいの」 「ど、どうしてそんなことを…」 「どうして?」  クス、と再び秋葉が笑う。 「そう、兄さんにはわからないわよね。じゃあ意識の残っているうちに簡単に教えてげあげるわ。  わたしはわがままだから、自分の所有物が自分の思い通りにならないことには耐えられないの。それならいっそわたしの手でその人形を壊すわ」  秋葉は何を言っているんだ? 「に、人形ってなん…だよ?」  すでに空気を肺から絞り出すことすら辛く感じる。 荒い息を吐きながらどうにか声を出す。  思考にはボウとしたもやがかかり、秋葉の言うことをうまく理解できない。  まるで異国の言語を聞いているかのように、意味を成さない音の羅列に聞こえる。 「あら、意外と物分かりが悪いのね。  人形とは兄さん、つまり貴方の事よ」  クスクスと、アキハは楽しそうダ。  自分の置かれた状況がワカッテイナイ小動物を憐れむメ。  琥珀サンも何が可笑しいのか、クスクスと笑ってイル。 「最初はね、兄さんが生きてわたしの側に居てくれさえすればいいと思っていたわ。  例えあの女に心を奪われ、わたしのことを妹としか見てくれなくてもね」  それは剥き出しの憎悪。 「でも、近くにあるとやっぱり手に入れたくなったわ。  ところが兄さんはわたしの気持ちに気づかない。いえ、気づいていても無視していたでしょう?  それだからもう、私が壊してあげるの」  狂おしいまでの情念。 「他の誰でもない、このわたしの手で兄さんは逝くの。  例えそれが呪詛の念だとしても兄さんの心を手に入れられるならわたしは満足よ。  さあ、わたしのために、わたしを想って死んでください」  いびつに歪んだ愛情。  —————デも。 「あ…きは、どう…して……泣いて…いるの?」 「なっ…何を言ってるの!?そんな事…」  秋葉の声がヒドク遠くに聞こえル。遠すぎて何を言ってるのかワカラない。  酒に混入された薬ノ影響か、ヒドク目眩がした。  目に見えるモノが全て揺れている。揺れながら俺ヲ苛む。醜く歪ミ、俺を圧倒スル。  いや、それとも俺自身が揺れてイルのか?  朦朧とする意識の中、俺は周りの風景を遮断するように目を閉じた。  目を閉じると、とたんに感じていた揺れがおさまる。  外界との感覚が急に希薄になり、自分が座っていたはずの椅子の感覚すら無くなっていく。  がくんと身体がイスを突き抜けて、床を突き抜けて、地面を突き抜けてどんどん落下する……。  強烈な落下感にびくんと身体が跳ねる。  手に持ったままのグラスがテーブルに当たり、かたっと硬質の音を奏でる。 「あ、志貴さん起きられましたか?」  散乱した酒瓶、グラス、おつまみの向こうから、いつもと同じくにこやかに琥珀さんが声をかけてきた。 「なにか悪い夢でも見てたんですか?  ちょっとうなされてましたよ」  ————ゆめ?         夢。  ああ……そうか、今のは夢だったんだ。 「あ、うん。ちょっと怖い夢だったかな。  俺、そんなにうなされてた?」 「ええ、『あきはーなにをするんだー』なんて唸るように言ってましたよ。  いったいどんな夢を見てらしたんですか?」  琥珀さんはクスクスと笑いながらそんなことを言っている。  一瞬、ほんの一瞬だけさっきの琥珀さんの姿とだぶって感じられ体がこわばったが、すぐに平静を取り戻す。 「ごめん、片づけ手伝うよ」 「いえ、いいんですよ。  それよりもベッドできちんと寝られた方がいいですよ。明日はパーティーですから」  本当のことを言えば、すごく眠い。頭がすっきりしない。  まだ夢の中にいるようなふわふわした感覚。 「うーん、じゃあ今日はお言葉に甘えて寝ることにする。  悪いね」 「いーえ、お仕事ですから。  それじゃあおやすみなさい、志貴さん」 「ああ、おやすみ」  琥珀さんはにっこりと笑って俺を送り出してくれた。  そんな琥珀さんをあんな風に夢で見てしまうだなんて、俺はどうかしてる。早く寝てしまおう。  笑顔に送られて俺は自室に戻りベッドに入った。  ベッドに入った途端すーっと意識が薄くなり、すぐに眠りに落ちることが出来た。  夢すらも見ない暗い闇からの回帰。  眠りから、醒める。  目を閉じたまま意識だけが目覚めた。  今回は夢も見ずに熟睡したようで、まるで眠りに落ちた次の瞬間にはこうやって覚醒しているような気がする。  頭に感じる柔らかな枕の感触が、ベッドの上にいる自分を認識させる。  いや、枕にしては妙に張りがありながらもその感触はあくまでも柔らかい。  ……と言うよりもむしろむちむちと頭部の重量を押し返してくる。  その不思議な感触に、目をつむったまま思わず枕?をまさぐった。 「きゃっ」  枕?が声をあげる。  しかし、すべすべとなめらかなこの感触はなぜだか俺を魅了して止まない。  寝ぼけた頭の命ずるままに俺の手は枕?を撫で続ける。  すると突然、枕?が今まであった場所、つまり俺の頭の下から無くなり、それに支えられていた俺の頭はニュートンのリンゴよろしく自由落下運動を始める。  どしんっと言う音と共に脳を揺さぶる衝撃。  もう、一気に目が覚めた。 「もう、いきなりなんてことをするんですか。  遠野くんはえっちですねぇ」  目の前には先輩が、いた。  ここは学校の和室?  良く状況が飲み込めない……が、どうやら、さっきまで枕?として認識していたモノはシエル先輩の膝枕だったらしい。 「えと…ああ、ご、ごめん。  そんなつもりじゃなかったんだけど、その、先輩のまさか太股だったとは知らずに…」 「やだ、もう恥ずかしいじゃないですか!  このことは忘れてくださいよ、ねっ?」  先輩は頬を赤らめるとばしんと背中を叩いてくる。 「うん、なるべくそうするよ。 ……ところでさ、どうして俺こんな所にいるのかな?」 「遠野くんったら寝ぼけてそんなことまで忘れてしまったんですか?  さっき、私が新しいお茶を考えたから遠野くんにご馳走したい、って誘ったんじゃないですか」  —————かすかに違和感が、在る。  ナニカガチガウ。弱々しい抵抗。 「それなのに遠野くんったら『寝不足でふらふらする』なんて言った後にいきなりばたーんと倒れちゃうんですから」  ウケイレロ。繰り返される囁き。  微かな違和感を圧倒する甘美な調べ。 「えっ、俺ここで倒れちゃったの?」 「そうですよ。いきなり倒れるもんだからわたし、貧血で倒れたのかなって心配しちゃいましたよ。  そしたら遠野くん、ぐーぐー言いながら本当にぐっすりと寝てるんだから、起こすのもかわいそうだなって寝かせてあげてたんですよ。  そしたらいきなり…」  ああ、そうだ、きっとそうだったんだ。  先輩の言うとおり、何のことはない、お茶に誘われた午後のうたた寝————。 「そう言えば、そうだったね。  ごめんよ、先輩の太股の感触が気持ちよくってつい…」 「やだもう、忘れてくださいって言ったじゃないですか!  それじゃあ今度こそお茶を点てますから待ってて下さいね」 「ああ、うん、お願いするよ」  そう言うと先輩は慣れた手つきで抹茶を点てはじめる。  茶室は本格的なものとはいえ、共に正式な茶道を学んだ身でもないために手順は簡略化され、かえってそれが心地よい。  その内に爽やかな抹茶の薫りが辺りに広がりはじめた。 「さて、ここからがオリジナルですよ。  よーく見ててくださいね!」  そう勢いよく宣言すると、先輩は側に置いてあった缶に手を伸ばす。  茶杓をその間に入れ、中から黄色い粉を取り出す。  黄色い粉……爽やかな抹茶の薫りを圧倒して漂い始めたスパイシーな薫り————。         『か・れ・え』          何故だかそんな3文字がふと脳裏に浮かぶ。  かれえ。  ————かれー。  ————————カレー!? 「せ、先輩ちょっと待った!」  今まさにカレー粉を茶碗に注がんとしていた先輩の手がかろうじて止まる。 「何ですか、遠野くん?」  軽やかな調子で聞いてくる。  自らの行為を微塵も疑っている様子はない。 「そ、そんなコトしちゃだ、駄目だ!駄目だよ先輩!」  焦っている。  自分でも焦っているのが良くわかる。  わかっているだけによけい言葉がうまく出てこない。 「あら、どうしてですか?」  先輩は心底不思議そうに訪ねてくる。 「どうしてって、そんなの不味いに決まってるってば!」  お茶栽培農家のみなさんとインド人への冒涜。いや、カレー粉を開発したのはイギリス人だからイギリス人への冒涜か?  そんな良くわからないことが次々と頭に浮かび、考えがまとまらない。 「やってみないとわからないですよ?  なんといっても、この世で最強のカレー粉とわたしが点てたお茶なんですから」  先輩は妙な自信を持って宣言した。  根拠のない自信ほど恐ろしく、はた迷惑なものはない。 「やってみないと、ってそんなの———」  しかしもう先輩の手は止まらなかった。  えいっとばかりにカレー粉を投入、即座に茶筅で混合撹拌する。  カレー粉は適度な温度の抹茶に反応して即時に溶解され一体と化す。 「ああーっ、入っちゃった……」  先輩は悪びれた様子もなく、ずずいと茶碗を差し出した。  もちろん、悪いなんてちっとも思っていないんだから当たり前だが。 「さ、志貴さんどうぞどうぞ。ごくっといっちゃってください」  先輩が差し出したその名称不明の液体をおそるおそる手に取る。  手元に来てますますかぐわしいカレーの薫り。その匂いに反応して、口の中には生唾が出てくる。  ああ我が哀しき本能よ、お前の想像とは似て非なるブツなんだぞ、これは…。  ちらっと先輩の方を見ると、先輩も俺のことを見つめていた。  目が合うと、にっこりと笑う。  ———やっぱり本気でこれを飲ませるつもりだ。  手元の茶碗を恐る恐る覗くと、中には茶色がかった緑色をした少し泡立つ液体。  少しとろみがあるような気がするのは恐らく気のせいじゃないんだろう。  それを見ただけで口の中には抹茶とカレーという前代未聞の味の競演が広がっていく気がした。  その想像上の味ですら、今までの人生で味わったことのない恐ろしいものとなった。 「あの…先輩?ちょっと激しすぎやしないですか、これは?」 「何を言ってるんですか、遠野くんは。  さ、約束ですから早くお願いしますよ」  先輩は期待に満ちた目で俺がこれを飲むのを待っている。  飲む、おいしい!、褒められる、バンザイ、というサイクルを想像しているのがありありとわかる。  しかしその反面、決してそう言うことにはならないのも手に取るようにわかる。 「早くって言われても…」  困った。  食べ物に好き嫌いはない方だが、これは食べ物という範疇を明らかに逸脱している。  しかし、余りよく覚えてないが先輩には飲むって約束をしてしまったようだし……。  えーい、ままよ、これで死ぬことはないだろう!  多分    恐らく       きっと          ……………そうであって欲しい。  俺はごくっと唾を飲み込むと、覚悟を決めた。 「はぁ…、もう、ちょっとだけですよ」  俺はそう宣言すると謎の液体を一気に口に入れた。  口腔に広がる抹茶の苦み。  間髪入れずに襲ってくる各種スパイスが奏でる協奏曲。  そしてその二つが渾然一体となって俺の舌の上で信じられないような美味を演出する!  なんてことはやっぱりあり得なかった。  むしろヤバイ。  これ以上口の中に留めて置いては味覚が破壊される。  そうなれば琥珀さんのおいしい料理をまともに感じることも出来なくなってしまうかも知れない。  底知れない恐怖に襲われた俺は液体を無理矢理喉に送り込む。  どうにか謎の液体は舌の上から去り、奇妙な味の狂騒は次第に穏やかになっていく。  しかし敵もさるもの、第二次攻撃として今度は抹茶の爽やかな香りとカレーのこくのある香りというこれまた見事な不協和音を残していった。  くっ、空気!新鮮な空気が欲しい!  はぁはぁはぁ!  息も荒く新たな空気を急いで体内に取り入れる。  若干抹茶とカレーの匂いが混ざってはいるが、先ほどの液体に比べると天と地ほども違う清浄さ。  しばらく荒い呼吸を繰り返し、ようやく人心地が付いた。  それなのに先輩は 「もう一杯いかがですか?」  なんて事を笑顔で訊いてくる。  いったいこの人は今の俺の姿をなんだと思ってみてたんだろうか…? 「も、もう無理です。勘弁してください」 「あれ、もしかしておいしくなかったですか?」  激しく頭を縦に振る。 「うーん、おかしいですねえ。  史上最強の組み合わせだと思ったんですけど」 「それじゃあ飲んでみてくださいよ。  苦くて凄い匂いですから」 「うーん、わかりました」  と言うが早いか、俺の飲み残しがたっぷりと入っている茶碗を手に取り、先輩は謎の液体を口にした。  ……特にリアクションがない。  緊張して先輩の反応を待つ。  まさか、まさかとは思うがこれをおいしいだなんて…言わない、よな?  いまいち確信が持てないところが恐ろしい。 「うーん…いまいち、ですねぇ」  そんなレベルか?と疑問が湧いたが、敢えてそこは黙っていることにした。 「それでは、口直しに和菓子でもどうぞ。  じゃーん!  なんと私の手作りなんですよ!」  と言って先輩が出してきた木の皿の上には、桜の花びらをかたどったピンク色の和菓子が乗っていた。 「おおー。先輩、これは凄いですね」  これはけしてお世辞でも何でもなく、本当に見事な造型の和菓子がそこにあったのだ。 「はい、これでも昔パン屋で働いてましたからね。 パーティー用に飾りの入ったパンなんかをよく作ってたんです。  それじゃあまた抹茶を点てますか?」 「ええ、今度は普通にお願いしますよ」  はーい、としおらしく返事をして先輩は再びお茶を点てる。  緑茶もいいが、やはり甘い和菓子には苦みの強い、そしてもちろんカレー粉なんて入ってない抹茶だろう。  それにしても本当においしそうな和菓子だ。  そんなことを考えているうちに抹茶が点てられた。  ニコニコとこちらを眺めている先輩。  楊枝で和菓子を二つに切る。 「へえ、外側は薄いピンク色なのに、中の方は色が濃いんですね。  うん、とっても綺麗ですよ、先輩」 「そんなに褒めてもらうと照れますね。  さ、どうぞどうぞ。食べてみてください」 「うん、じゃあいただきまーす」  半分に切った和菓子を口に入れる。  一番外側にある砂糖が舌の上でさらりと溶ける。  上品な甘さが口の中一杯に広がり、中に包まれていた餡が舌に触る。  それすらも雪を溶かすかのように形が崩れ、上白糖とは違った糖蜜の野趣あふれる香りが…糖蜜の香りだけではなく、さっきからなじみ深いスパイスの刺激的な味と香りが広がった。  くらり。  意識が遠のく。  この不意打ちはかなり効いた。  先輩には失礼だが、口直しを求めていた味覚中枢が完璧な不意打ちを食らった。  味覚という名の暴力を、後頭部に叩きつけられた棍棒並の威力で食らった。  ああ、もう、駄目……だ。  味覚と臭覚を襲う強烈な一撃に意識が朦朧と…して…き…た…。  俺はそのまま糸の切れた操り人形のように、ばたりと畳に倒れ込んだ。  そのまま何時間ぐらい眠っていたのか……気が付くと目をつむっていてもなお感じられる、強烈な朝の日差しに目が覚めていた。 「……口の中が、まだカレーっぽい」  畳と、抹茶と、カレーの匂いの立ちこめた和室に俺はいたはずなのに。 「あ……れ」  そのかわりになんだかいい匂いがする。 少し甘くて爽やかな薫り。 「おはようございます、志貴さま」 「……おはよう、翡翠」  自分の部屋、だ。  部屋には死の線が走り、頭には鈍い痛みが走る。  眼鏡をかけて辺りを見回してみるが、間違いなく俺の部屋だった。  ああ————そうか、今のは昨日の夜ふらふらと寝てしまった後に見た夢だったのか————。 「————おや?  翡翠、顔が赤いよ。熱でもあるんじゃない?  どうしたの、風邪でも引いた?」  見ると翡翠はなぜか顔を真っ赤にして立っている。  しばらく翡翠はもじもじと答えにくそうにしていたが、じっと様子を見ているとぽつぽつと答え始めた。 「それは…その……失礼ながら、志貴さまの寝言を、聞いてしまったからです」 「寝言?俺、寝言なんて言ってたんだ」 「ええ、大変はっきりと発声なさってました。  それに、今朝は……その、若干寝苦しそうに、してらっしゃいました」  相変わらず翡翠の顔は真っ赤だ。  しかし、寝言と言っても俺が今まで見ていたのはシエル先輩にカレー抹茶とカレー和菓子を食べさせられた夢で、翡翠の顔が赤くなるような理由はどこにもない。  でもやっぱり顔が赤いし、翡翠が恥ずかしそうにしているのも事実だ。 「おかしいなぁ、俺、そんな変なこと言ってた?」 「それは、わたしの口からご説明するのははばかられます」  ……ますますわからない。  よっぽどシエル先輩に対する恨み言でも言っていたのだろうか? 「ですが、志貴さまがどうしてもとおっしゃられるのなら、出来るだけ緻密にご説明いたしますが?」  翡翠はいつもの冷静な顔になってそんなことを言ってくる。  うーん、記憶にないことを寝言で言っていたというのもなんだか気持ちが悪い。 「じゃあ説明してみてもらえるかな?」 「————かしこまりました。それではご説明させていただきます。  まず、わたしが部屋に入ってしばらくすると、志貴さまがぴくんと動きまして、お起きになるのかな、と注意して志貴さまを見ていました。  すると志貴さまは『そう言えば、そうだったね。ごめんよ、先輩の太股の感触が気持ちよくってつい…』と寝言を仰いました」 「うん、確かにそんな夢を見てた気がする。  それで?」 「しばらくすると志貴さまは慌てたご様子で『せ、先輩ちょっと待った!』と仰られ、それからはだんだんと体が上気して、汗をかき始めていました。  そして『そ、そんなコトしちゃだ、駄目だ!駄目だよ先輩!』『どうしてって、そんなのマズイに決まってるってば!』と立て続けに仰られました」  一度は平静に戻っていた翡翠の顔が、再び上気し始めている。 「次に……その、『やってみないと、ってそんなの』、『ああーっ、入っちゃった……』と仰いまして、このころから志貴さまの息が少し荒くなり、汗もだいぶ目立つようになってきていました」  ———————あれ?  なんか、言葉と俺の様子だけを聞いていると、さっきの夢とは別の情景が浮かんできたんですけど?  なんだかとってもイケナイ夢を見ていたような感じがするんですけど? 「それから志貴さまは生唾を飲み込んでおられました。そして『あの…先輩?ちょっと激しすぎやしないですか、これは?』、『ハヤクって言われても…』と困惑したように仰いました。  ちょっと時間が経った後に諦めたご様子で『はぁ…、もう、ちょっとだけですよ』と仰った後は息がだいぶ荒くなっていました」 「え、えーと、翡翠、なんだか誤解しているようだけれども、その夢は—————」 「そして『も、もう無理です。勘弁してください』と仰った後————」  翡翠が、俺の言葉を遮って続ける。 「———その、『それじゃあ飲んでみてくださいよ。苦くて凄い匂いですから』と——————」  うわあああ、翡翠が俺に対してどんな誤解をしているのかはわかったが、その誤解を解かない限り、一生翡翠とは以前のような関係に戻れないだろう。 「も、もういい。それは誤解だ。  頼むからやめてくれ、翡翠!」  俺は必死に訴える。  しかし翡翠は俺の声が聞こえていないかのようにしゃべり続けている。 「———そして『へえ、外側は薄いピンク色なのに、中の方は色が濃いんですね。  うん、とっても綺麗ですよ、先輩』と仰った後、しばらくするとまた息が荒く———」  何故か翡翠は俺の言うことを聞いてくれないし、翡翠に合わせる顔なんてない。  情けない話だが翡翠がどこかに行くまで隠れるため、がばっと布団をかぶる。 「……………」  しばらく布団の中で丸くなってじっとしていたが、相変わらず外からは翡翠が何かしゃべっているのが聞こえる。  ああ、いったいどうして俺はこんな目に遭っているだろう……。 「……しき……どうか……」  翡翠のしゃべる声が次第に大きくなってきたのか、だんだんと何を言っているのか聞き取れるようになってきた。 「…ですか志貴さ…どうか…ください」  心配そうな翡翠の声が聞こえる。  なんか、さっきまでの翡翠の声とはだいぶトーンが違う。 「大丈夫ですか志貴さま、どうかお目覚めください」  本当に心配そうな声。  ————お目覚めください?  何を言っているんだ、翡翠は。俺はついさっき起きて、翡翠と話したばかりなのに。  翡翠の性格からは考えられないが、もしかして俺をからかっているんだろうか? 「志貴さま、大丈夫ですか?志貴さま、お目覚めください」  しかし、翡翠の声は本当に心配そうだ。このままだと翡翠が可哀想な気がしてきたので、布団をかぶったまま答えることにする。 「起きてる、起きてるよ翡翠…さん」 「あっ、志貴さま、大丈夫ですか?どこかお加減でも悪いのですか?」 「……いや、大丈夫だけど。  その、翡翠さん、さっきのことは————?」 「さっきの、こと、ですか?」  翡翠はよくわかっていないような感じだ。  翡翠は演技ができるようなタイプじゃないし、かといってさっきのことを忘れるというのもいかにもおかしい話だ。  おそるおそる布団から顔を出してみると、最初は闇に慣れた目が朝の光に灼かれ、眼球の奥に鈍い痛みが走った。  次第に目も慣れていつもと同じ、俺の部屋の風景が目に入る。  見慣れた部屋、見慣れた死の痕。  視界の端では翡翠が心配そうにこちらを見ている。  ———ズキン。  と、鈍くも強烈な痛みがこめかみに走る。 「眼鏡ですか、志貴さま」  と、翡翠が眼鏡を手渡してくれた。  ———————何か。今、違和感を感じた。 「…ああ、ありがとう」  いつものようにそれをかけると、すうっと死の線が消える。  そうか!  さっきも俺は眼鏡をかけた。  それなのに、今布団から出たときは眼鏡をかけていなかった。  つまり…さっきのことは夢、だったのか?  夢だったと言っても、寝ていたという感覚はないのだが、かけていた眼鏡がいつの間にか外れていたのは事実だ。  夢の方が現実味にあふれすぎていたんだろうか? 「……おはよう翡翠。  今日はなんだか夢見が悪くて…」  納得がいかないまま今日はじめて翡翠を見る。  やはり、身近な人に死の線を見るのはとても恐ろしい。  だから、眼鏡をかけていないときはいつも無意識に視線を逸らしてる。  今朝は、翡翠のいつもと変わらぬ二つの胸のふくらみが俺の目を釘付けにして離さない。  —————————はだか?  裸、衣服を着けていないこと。  ああ、そうか、翡翠はいつものメイド服を着ていないんだ————————。 「ひっひっ翡翠—————」 「志貴さま、どうかなされましたか?」  翡翠があわてて駆け寄る。  その間もあらわな胸から目が離せない。って、いつまで見てるんだ、俺は!  これ以上見てしまわないようにふたたび頭から布団に潜り込む。 「翡翠っ、ふ、服っ。服をっ」 「はい、志貴さまのお着替えは持ってきていますが」  布団の中なので、くぐもった声が聞こえる。 「そうじゃなくて翡翠の服っ」 「なにか失礼なところがございましたでしょうか?それでしたらすぐに着替えてまいりますが」  なんだか話がかみ合わない。  まさか、翡翠は自分が裸だということに気が付いていない?  ————そんな馬鹿なことがあるわけないか。  いくらなんだって自分が裸であることに気が付かない人なんて居ない。  しかしながら、翡翠の態度は明らかに自分が裸であることに気がついていない。  つまり、俺が寝ぼけていたのか?  そう結論づけた俺は布団からおそるおそる顔を出し、翡翠を…見た。  相変わらずあらわな双丘。大きすぎず、かといって小さすぎないちょうどいいサイズのその乳房が俺を魅了する。  ————そうじゃない!  何を冷静に観察してるんだ、俺は!  みたび頭から布団に潜り込む。 「翡翠、だから服っ。服着ないとっ」 「え———その、志貴さまは寝間着をお召しになっておられますが?」  まったく、何のことだか判ってない。翡翠はおかしくなってしまったのか?  —————いや、また何か違和感が。  よく思い出せ、遠野志貴。  夢の中で翡翠にいじめられて布団に潜ったとき眼鏡はかけていた。  だが、翡翠の様子がおかしいので布団から出てみると、眼鏡はかけて無くて死の線が見えた。  その時………そう、その時に視界の端に写った翡翠は、いつものメイド服を着ていた!  だが、今は…やっぱり裸だ。  さっきと今の違いは、眼鏡をかけている事ぐらいだ。  試しに眼鏡を外して見てみるか。 「翡翠、ちょっと動かないでね」 「はい、わかりました」  言いながら眼鏡を外し、翡翠をちらっと見る。  ———ズキン。  メイド服を、着ている。  眼鏡をかけ直して翡翠を見ると…裸だ。  さらに布団をかぶって考える。  つまり、眼鏡をかけなければ死の線が見えてしまうし、眼鏡をかければ裸が見える。  裸が見える、という状況はコントロールできれば便利、というか嬉しい気もするが、否応なしに見えてしまうという状況は歓迎すべきものではない。  しかし、眼鏡を外して生活をするというのは命に関わる。  おそらく、1日眼鏡を外して生活をしただけで脳の神経が焼き切れてしまうのではないだろうか。  ならば、今まで直死の魔眼と折り合いを付けて生きてきたように、これからはこの裸が見える状況と折り合いを付けて生きていかなければならない。  深呼吸を1つ2つと繰り返して心を静める。  慣れてしまえばどうってことはないさ。  そう自分に言い聞かせながら恐る恐る布団の影から頭を出す。  心のどこかではやっぱり間違いであってくれ、と願いながら。 「—————駄目、か」  思わずぽつりと口を出る。 「あの、志貴さま…?  本当にお加減の方はよろしいのですか?」 「あ、いや、うん、大丈夫だ。  大丈夫だからもう心配しなくていいよ。  なんだか今朝は色々と妙なことしてゴメンな」 「あ……いえ、そのように謝られなくても結構です。  わかりました、それではお着替えになったらお早めに朝食を召し上がってください。  本日は色々と準備がありますので」 「へ?準備って何の?」  きょとんと翡翠がこちらを見る。  すぐに心配そうな顔になりこんな事を言ってきた。 「あの、志貴さま、失礼ですがやはりご加減が優れないのではございませんか?」  む、物覚えが悪いのを馬鹿にされるのはまだいいけど、心配されてしまうとなんだか悲しくなる。  しかしながら、そうは言われても心当たりがないものはない。 「いや、そんなことはないよ。うん、むしろ体調はいい方だ。  それよりもちょっと忘れてしまったんだけど、今日は何かあるの?」 「……今日は志貴さまの誕生パーティーがございます。志貴さまのお友達を呼んで庭で行われますが」  え?友達ってそれはまさか。  ———悪い予感がする。 「友達って……誰?」 「それはもちろん、御学友の乾様、シエル様、そしてアルクェイド様ですが」 「えーーっ、そ、それはまずいっ!  中止か延期にできないかな?」 「秋葉さまは習い事などの時間を調節してようやく今日一日をお空けになったのです。  それに秋葉さまも姉さんも今日をずいぶん楽しみにしておられるようですので、今から日にちを移すことは難しいと思われます」  静かに翡翠は宣告する。  予感はものの見事に的中していた。  まだ裸が見えてしまうという状況にまったく慣れていない。  翡翠一人でも気を抜くと意識してしまいそうなのに、そんなメンバーが集まったらいったい俺はどうなってしまうんだろう。 「な、なあ翡翠、今日は体調が悪いから俺は不参加って事にはできないかな?」 「今日は志貴さまの誕生パーティーですよ?  主賓が欠席するパーティーなんて聞いたことがありません。  それに、志貴さまは先ほど『むしろ体調はいい方だ』と仰いましたが?」  う…翡翠さんがチョッピリ怒っていらっしゃる。  どうやらこれは翡翠も楽しみにしてたらしい。  ————とても逃げられそうにはないようだ。  覚悟を決めるしかないのか。 「わかった、諦めるよ。  じゃあ着替えるから出て欲しいんだけど?」  その言葉を聞いても翡翠はじっとこちらを見つめる。裸の翡翠にじっと見つめられると…恥ずかしい。 「大丈夫だよ、逃げたりはしないから。  結構信用がないんだな、俺も」  俺がそう苦笑いしながら言うと、はっと翡翠は頬を染める。 「いえ、失礼致しました。  それでは居間でお待ちしております。  良い一日をお過ごしください」  よほど最後の行為が恥ずかしかったのか、翡翠にしては珍しく、ぱたぱたと音をさせながら部屋を出ていった。 「はぁ…良い一日、ねぇ」 (注:ここから志貴の視界はご想像の上お楽しみください)  翡翠の置いていった服に着替えることにする。  どうやら自分の服は見えるようだ。  とりあえず服をがまともに着れそうなことに感謝して手早く着替えると部屋を出て居間に向かった。  この角を曲がれば居間だ。おそらく秋葉も居るだろう。  まずは心を落ち着けるために深呼吸を…。  スゥーッ————。 「兄さんおはようございます」  げほっ。ごほっ。  思いっきりむせた。  いきなり後ろから声をかけられるなんて不意打ちもいいところだ。 「に、兄さん大丈夫ですか?」  肩越しに心配そうな秋葉の声がする。 「ちょっとびっくりしただけだ。心配ないよ。  それよりもおはよう秋葉」  と、振り返らないまま答える。 「あら、顔も見ずに挨拶ですか?  そんな横着は遠野の家では許されませんわ」  一転して冷たい声で秋葉は言い放つ。  う…まずい。  とにかく気を落ち着けよう。  胸に手をあてて鼓動が静まるのを待つ。  ドクン。ドクン。ドクン。  よし、もう大丈夫だ。  振り返ってにこやかに挨拶をする。 「ああ、ごめん秋葉。  ちょっとむせたもんだから。  改めておはよう」  ———やはり、翡翠だけではなかった。  秋葉も服を着ていない。  というかそのように見える。  静まった鼓動が再び早まるのを感じる。  血が頭に上り、顔が紅潮する。 「あら、兄さん顔が赤いですわ?  熱でもあるのではなくて?」  そういって秋葉は俺の額に手を当てようしてか、右手を上げながら近づいてくる。  ま、まずい。この状況はとんでもなくまずい。 「だ、大丈夫だ。なんでも、なんでもないから!  ちょ、ちょっと朝の散歩に行ってくるっ!」  それだけ言うと俺は秋葉から逃げ出した。 「あ、兄さん、ちょっと————」  どだだだだだだ。  そのまま屋敷の中を走り、庭に出る。  誰もいない庭に入り、朝の空気を吸うとようやく鼓動も落ち着いてきた。 「あっ志貴さんおはようございます。  こんなところでお見かけするとは珍しいですね」 「おわあっ!」  心臓が、口から、飛び出すかと、思った。  後ろからかけられた声は紛れもなく琥珀さんのもの。  覚悟を決め今度はきちんと振り返って挨拶をする。 「やあ、おはよう琥珀さん」 「…あれ、志貴さんどうして目を閉じてるんですか?」  あっさりと気づかれた。 「いや、ちょっと太陽が眩しくて————」  クスクスと琥珀さんが笑う。 「もう、朝から志貴さんは面白いですね。  じゃあ朝食の準備をしますから、しばらくしたら食堂の方へ来てくださいね」 「ああ、わかった。ありがとう」  琥珀さんが屋敷に戻る。  ようやく一人になれた。  ばたばたと今屋敷にいる全員に出会ってしまったが、一人一人でも恐ろしい破壊力だった。  俺の理性は今日一日、耐えられるんだろうか?  これからのことを考えると否が応でも憂鬱な気分になったが、考えようによってはこれ以上幸福な男もそう居ないだろう、と自分を慰めることにした。  それからしばらく庭を散歩し、十分に気持ちを静めてから朝食を取りに行った。  秋葉はすでに朝食を取って部屋に戻っていたし、翡翠も琥珀さんも今日のパーティーの準備で忙しくしていたため、かえって朝食は落ち着いて取ることができた。 「さて…どうするかな?」  部屋に戻って準備ができるまで待てば誰にも会わずに過ごすことはできるだろうが、それではいきなり大勢に囲まれるパーティーの時が辛い。  だから少しでも免疫を付けるために翡翠や琥珀さんの手伝いをしながら過ごした方がいいだろう、と考えて屋敷の中を歩く事にした。 「あ、志貴さーん、ちょっと手伝っていただけますか?」  早速キッチンの琥珀さんからお呼びがかかった。 「もちろんいいですよ。それで、何をすればいいんです?」 「蒸し器が上の戸棚にあるんで、ちょっと椅子を押さえておいてもらえますか?」  ………それはマズイ。この状況で下からのアングルは非常に魅惑的かつ破壊的だ。  それに第一、こんな一方的な状況はフェアじゃない。  —————いや待て志貴。  椅子を押さえているだけで、上を見なければ何の問題もないじゃないか。  そう、椅子だけを見ていれば大丈夫。うん、大丈夫だ…。 「わかったよ琥珀さん。これでいい?」 「ええ、じゃあしっかり持っててくださいね」  目の前を琥珀さんの白く美しい足が椅子に登る。  思わず目で追いたい誘惑にかられたが、グッと我慢することに成功した。  椅子に登り、遙か頭上の戸棚を探る琥珀さん。  がさがさという音と、ときおり椅子のきしむ音だけが聞こえてくる。  俺は椅子の木目を賢明に数えて気を紛らわす。 「うーん、蒸し器、この大きさで足りると思います?」 「え、どうかな?」  言われて俺は蒸し器の大きさを見るために上を……しまった!  ———人の道に反するやり方でその、えーと、微妙な部分が見えてしまった気がする。  あわてて立ち上がるとドンっと頭が琥珀さんに当たってしまったが、今はそれどころじゃない、あわててその場を走り去った。  後ろからきゃっという声がした後、どしんっと音が聞こえた気がした。  琥珀さんが心配になったが、振り返ったらまた倫理に反するナニかが見えてしまいそうでそのまま部屋まで逃げ帰る。  はぁ、はぁ、はぁ…。 「琥珀さんには悪いことしちゃったな。後で謝らないと…」  でも、今は顔を合わせる気になれないのでしばらく部屋に留まることにした。  ぼんやりと窓の外を眺めながら、俺の目はいったいどうなってしまったんだろう…などと考えていると控えめなノックの音が響く。 「志貴さま、いらっしゃいますか?」 「うん、どうぞ。  なにか用事かい、翡翠?」 「パーティーの準備の方も一段落しましたし、そろそろ皆様がお見えになる時間ですので、居間で紅茶でも飲みながらお待ちにならないか、と秋葉さまがご提案なされたのですが、いかが致しますか?」  うーん、琥珀さんと二人っきりにならずに会えるいい機会かもしれない。 「判った、じゃあ行こうか」  全裸の翡翠と一緒に居間に着くと、全裸の秋葉と琥珀さんが椅子に座り、紅茶を平然と飲んでいた。  あまりにシュールな光景にくらっときたが、すぐに自分を取り戻す。  咳払いを一つして琥珀さんに謝る。 「琥珀さん、さっきはごめん」 「もうっ、逃げちゃうなんてひどいですよ。腰を打っちゃたじゃないですか」  と琥珀さんは腰に手をあてて怒っている。 「ほんとに悪かった。ごめん、反省してる」 「今度からは気を付けてくださいよ」  それだけ言うと満足したのか、琥珀さんはいつもの調子に戻って再び紅茶を入れはじめた。  俺も席について紅茶を飲む。  豊かな香りが鼻腔をくすぐり気分が落ち着く。  見れば秋葉、翡翠、琥珀さんもそれぞれ紅茶を飲んですっかりくつろいでいるようだ。  俺は紅茶をすすりながら何の気なしに三人の上半身、正確には首からちょっと下の部分を順番に眺め…ぽつりと呟いていた。 「秋葉————」 「なんですか、兄さん?」 「いや…牛乳、飲むといいらしいぞ」 「………………??」(秋葉) 「………………??」(翡翠) 「………………ぷっ」(琥珀) 「え?兄さん、どういう事なの?」 あれ…なんだか、とんでもなくまずいことを言ってしまったような気がする————。 「い、いや、なんでもない。気にしないでくれ」  しかし秋葉は明らかに疑いの眼差しをこちらに向けている。 「琥珀、あなたは何のことだかわかってるの?」  えっ?と琥珀さんはこちらとちらっと見て、意地の悪い笑みを浮かべた、気がした。  琥珀さんが秋葉になにやら耳打ちをすると、瞬間、秋葉の髪が紅に染まって見えた。 「ちょ、ちょっとまて秋葉。冷静に話し合おう!な!」 「兄さん…安心してください。  苦しまないようにして差し上げるわ」  ゆらりと  秋葉の背後に  緋色の  蜃気楼が  立ち上った。 「さよなら、兄さん」  駄目だ、我を忘れてる。  こうなったら三十六計逃げるにしかず、俺は脱兎のごとくその場を逃げ出した。  屋敷内を走り、玄関を出て正門へ。  その間も後ろからひしひしとプレッシャーを感じる。  はぁ、はぁ、はぁ。  全速で走りながら振り返ると、そこにはやはり真紅の髪の秋葉が…  がつっ  右足が何かにつまづき、身体全体に衝撃が走った。  急停止する右足。慣性の法則に従いスピードを維持する身体。  結果、足は地面を離れ、身体は見事に宙に浮いた。 「兄さんっ!?」  ああ、格好悪い……。  こんな豪快に転んだの何年ぶりだろう。  下が芝生で良かった。  これで秋葉に捕まるかな。  スローモーションで感じるって本当だったんだ。  そんなことを宙を舞っている間、考えた。  ばふっと芝生が身体を受け止める。  着地成功、かどうかはわからないが怪我はしなかったみたいだ。 「大丈夫ですか、兄さん?」  後ろから秋葉の心配そうな声が聞こえる。  一瞬前まで俺のことを殺しそうな勢いで追いかけてきた割にはずいぶんとしおらしい。  目の前には艶やかな緑の芝生と、天を突く2本の柱。 「よおっ、ダイビングしてくるとはすいぶん熱烈な歓迎だな!」  その天上界から声がかかる。  え?っと思わず上を… 「どわああああああ!  あ、有彦っ、お前なんてモノを見せるんだっ!」  そこには凶悪なモノが醜悪な角度で存在した。 「は?なーに言ってるんだよ志貴?派手に宙を舞って頭でも打ったか?」  すぐ我に返る。  ああくそ、こういう可能性は全く考えてなかった。 「…うるさいな、大丈夫だよ」 「遠野くん、華麗なジャンプでしたけど怪我はないですか?」 有彦の後ろからひょっこり顔を出して先輩が言う。 「先輩までそんなことを言う…って先輩居たんですか?」 「ええ、坂の下で乾くんと偶然会いまして。  それでここまで一緒に来たんです」 「ふんっ、あんな事言うから芝生に飛び込むような目に遭うんだわ。自業自得よ」  後ろから追いついてきた秋葉がすれ違いざまに憎まれ口を叩く。  ……いや、悪いのはやっぱり俺の方か。 「お久しぶりです、乾さん」 「おうっ、秋葉ちゃんも元気そうだね」 「こんにちは、秋葉さん」 「あら、先輩も来てたんですの?気が付きませんでしたわ」 「そうですか。わたしは秋葉さんが怒ってるのは大分前から気が付いてましたよ。ずいぶんと綺麗な髪の色でしたし」 「あら、お褒めにあずかって光栄ですわ。 先輩こそ素敵な名前ですこと。学校では随分珍しがられたんじゃありません?」 「いえ、みなさんとても良くしてくださって、違和感無く受け入れてくださいましたよ」  有彦が脇腹をつついて、耳打ちをする。 「なぁ、あの二人まだ仲悪いんだな…。なんかどっちも笑顔なのにスゲエ威圧感を感じるぜ」 「ああ…、俺には二人の後ろに竜と虎が見える気がするよ…」 「あっ、シエル様に乾様、ようこそおいでくださいました」  後ろから琥珀さんが追いついてくる。 「あら、こんにちは琥珀さん」 「やっ琥珀さん、久しぶり」 「後はアルクェイド様だけですね。  それではみなさん、テラスの方にお茶を用意しますので、そちらでお待ちください」  そういってみんなでテラスの方へと歩き出す。 「琥珀、翡翠はどうしたの?」 「翡翠ちゃんは『志貴様のお部屋で物音がした』って様子を見に行っちゃいました。志貴さんが窓でも、また、閉め忘れたんですかね?」  …妙に『また』の所を強調する琥珀さん。 「ふうん…まあ、どうせ意図的にでしょうけどね」  チラリ、と冷たい目でこっちを見る秋葉。  どうやらさっきのことをまだ根に持っているようだ。 「遠野くんは優しいんですねえ。  あんなの閉め出しとけばいいのに」  シエル先輩まで目が冷たい。 「どーいう事だよ遠野?」 有彦だけはなんの事だかわかってないない。  まあ、わざわざ説明してやらなくてもいいだろう。 「いや、俺が良く部屋の窓のカギを閉め忘れるってだけだよ」  う、なんだか二人の目がより一層冷たくなった気がする。  その後は何となく気まずい雰囲気になり、とぼとぼと歩いてテラスに到着した。 「やっほー志貴、遅かったじゃない」  紅茶を片手にそんな脳天気な挨拶をしてくるのはアイツしかいない。  白い装束の吸血姫。  いや、今は服の色は確かめられないが、アイツが白以外の服を着ているところは見たことがないから、恐らく今日も白なんだろう。 「アルクェイド、なんでお前がすでにここでくつろいでるんだよ」 「あら、志貴を驚かせようと思って部屋に行ったら誰もいないんだもん。  まあ、すぐに翡翠が来てくれたけどね」 「アルクェイド様に窓から出入りするのはおやめください、と志貴さまからも仰ってください」  翡翠が俺の方を非難するように見る。 「もう何回も言ったんだけどね…。  こいつが俺の言う事なんて聞くようなたまか?」 「あら、その割には兄さんも窓のカギを閉めようとはなさってないようですけど?」  秋葉の氷点下の言葉が突き刺さる。 「ははぁーん、ようやくわかったぜ遠野!  女の方から夜這いかけてくるなんて、お前もなかなかやるじゃねーか!」  有彦が妙に嬉しそうにバンバン、と背中を叩いてくる。  その間も4対の非難する瞳は俺に集中砲火を浴びせる。  針のむしろだ…。  そのくせ、もう一方の当事者、アルクェイドはそんな俺を見て実に楽しそうに笑っている。  なんだかものすごく納得がいかない。 「こらアルクェイド、お前も少しは反省しろ」 「えー、でもそうしたら妹が怒るから毎日会えなくなっちゃうよ。  そしたら志貴だって寂しいから嫌だって言ってたじゃない」  ———————なにか、周りの空気が白けたというか、呆れたというか、とにかく変わった。  秋葉なんて頬を染めながらゴホン、だなんてわざとらしい咳払いをしている。  いや、秋葉だけでなく先輩も、翡翠も、琥珀さんまでも頬が赤い。  ただ一人、有彦だけがにやにやとこっちを見ているのが何とも憎らしい。 「ま、まあとにかく、みなさん集まったことだし、パーティーを始めましょう。  琥珀、翡翠、みなさんにお飲物を差し上げて」 「はい、わかりました。  みなさん、乾杯のお飲物は何に致しますか?」 「あっ、俺はビールで」 「わたしはウイスキーでいいわ」 「じゃあわたしは赤ワインをください」 「わたしはねー、ジンライムお願い」  …どうしてみんな当然のようにアルコールを頼むんだろう。 「承知いたしました。  志貴さんはなんにします?」 「俺はジ————」 「まさか、ジュースだなんて仰りませんよね、兄さん?」  また秋葉の冷たい瞳。  当分はこうやってちくちく虐められそうな気がする。 「ジ、ジンライムでいいよ。  アルクェイドと同じ奴。  でも薄くしてね琥珀さん」  はーい、と言いながらぱたぱたと琥珀さんはお酒を取りに行った。  翡翠も後に付いていく。  程なくしてお酒が行き渡り、乾杯の音頭を秋葉がとる。 「それでは、兄さんの誕生日を祝しまして乾杯いたしましょう」 「かんぱーい!」  宴もたけなわとなり、みんなすっかり酔いが…いや、あまり回っていないのもちらほら…というか、俺と翡翠以外はあまり酔っているように見えない。  うわばみの集団を前にすると、翡翠が普通に酔ってくれるのを見ると安心する。  秋葉、アルクェイド、有彦はなんだかワイワイとやってるし、先輩と琥珀も何事か話し込んでいる。  翡翠は…椅子に座ってごくごく薄いウイスキーの水割りを飲み続けて、というか舐め続けている。 「翡翠、大丈夫か?」  こくん、とほんのり上気した顔が上下する。  う…、なんとか意識せずにやってきたけど、裸(に見える)でその上気した顔はちょっと理性が危うくなる。 「そ、そうか。あー、その、程々にな」  顔を背けて答えつつ、手近にあった椅子に座る。かなり不自然な行為だったが、幸い翡翠には気にならないようだ。  そのまま何を話すでもなく二人でちびちびとアルコールを舐めているとその様子に気づいた秋葉、アルクェイド、有彦のグループが近寄ってきた。  うーん、全裸の秋葉とアルクェイドと有彦。これ以上あり得ない組み合わせも珍しい。  そんな不埒なことを酔いにまかせて考えていると、秋葉が声をかけてきた。 「もう、どうして兄さんは今日の主役だというのにこっそりこんなところで飲んでるんですか」 「俺たちはお前らと違って繊細だからな。つき合って飲んでたら体が幾つ有っても足りないんだよ」 「そりゃ気合いがたんねーから酔うんだよ、遠野」  なんて有彦が持論である『気合いでアルコールは分解できる説』を持ち出してくる。 「お前と一緒にするなって。  大体俺は医者にもアルコールは控えるようにって言われてるんだからな」 「ちぇ、それ言われたらどうしようもねーなー。  ま、そんなことよりお前も秋葉ちゃんを説得してくれよ」 「説得って、なんの話だ?」  突然有彦が俺の方に向き直り、がしっと両手で肩をつかむ。 「なあ遠野!」 「な、なんだよいきなり」 「今の季節はなんだ!?」 「いつって…そりゃ、夏に決まってるだろ」 「その通り!  じゃあ夏と言えばなんだ!」 「…暑い?」 「かぁ〜、なんて貧困な発想しか出来ない奴なんだ、お前は。  よーっしアルクェイド軍曹、オレに変わって遠野三等兵に教えてやれ!」 「イエッサー隊長!  夏と言えば青い空と青い海、そして白い砂浜であります!」  …なんなんだ、この妙なノリは。しかもアルクェイドまで有彦と一緒になってはしゃいである。  発想の貧困さで言えば同レベルだろうと思ったが、気圧されて文句が言えない。   「そのとぉーりっ!  つまりだ、遠野。海に行こう、それも泊まりがけで」 「ははあ、ようやくわかった。  お前、それを提案したら秋葉が乗り気じゃないから俺に説得させようとしてるんだな」 「つまりそういうことだ。  なかなか飲み込みが早いじゃないか遠野三等兵!」 「あははー、志貴ったら三等兵だってー」  何が面白いのか妙に嬉しそうなアルクェイド。 「それでは、アルクェイド軍曹からの命令を伝える!  志貴三等兵はわたしを海に連れて行くこと!」  ちょっと想像を巡らせてみる。  アルクェイドと海に。  広い砂浜を水着で走るアルクェイド。  見渡す限りの大海原をアルクェイドと二人りきりボートをこぐ俺。  遙か水平線の彼方に沈む夕日、空も、海も、そしてアルクェイドも茜色に染まった黄昏。 「よしっ、行こう」 「えっ、兄さん何を言ってるんですか」 「別に妹は来なくてもいいよー。  そしたらわたし志貴と二人で行くから。ねっ」  そういってアルクェイドが俺の腕に抱きつく。  見えない服越しになお感じられるアルクェイドの豊かな胸の感触と、そもそも胸が見えてしまっているというこの状況で、俺の顔は一気に赤くなってしまった。 「むっ、誰も行かないなんて言ってません。  ええ、行きますとも」 「おっしゃ!ナイスだぜアルクェイド!」 「えー、妹も来るの?」  有彦は単純に喜んでいるが、アルクェイドは二人きりという方が魅力的だったのか、残念そうだ。  俺もアルクェイドと二人きりで海に行くという案には非常に魅力を感じるが、ここは丸く収めておいた方がいいだろう。 「まあまあ、そう言うのは大勢いる方が楽しいじゃないか、な、アルクェイド」 「まあ、志貴がそう言うんだったら…」 「どうしたんですか、そんなに盛り上がって」  とシエル先輩と琥珀さんもこっちにやってきた。 「あ、先輩、今みんなで海に行こうって話になったんだけど、当然先輩も来るよな?」 「海ですか?いいですねえ。  それじゃあ水着を新調しないといけませんね」 「あ、わたし水着持ってなーい。  志貴、今度買いにいこっ」  …え?  そもそも服も水着も見えないこの状態でどうやって買い物につき合えばいいんだろう。  というか海に行ったら俺一人ヌーディストビーチ状態なのか。  これは平常心を鍛えて置かなければ、一歩も動けない状態になってしまいそうだ…。 「ん、ああ、そのうちな」  アルクェイドに曖昧に返事をしながらそんなことを考えていると、秋葉が琥珀さんとなにやら話している。 「琥珀、貴方も水着を用意しておくのよ」 「えっ?秋葉さま、わたしも行くんですか?」 「当然じゃない。  それとも行きたくないの?」 「いえいえ、そんなことはありませんよ!  ほら、翡翠ちゃんも海に行きたいよね?」  と、会話にも参加せず、お酒を舐め続けていた翡翠に琥珀さんが話しかける。  翡翠はしばらくぽーーーっとしていたが、こくんっと勢いよく頷くとまたちろちろとお酒を舐め始めた。  これはまたずいぶんとにぎやかなご一行になりそうだ。 「あれ、でも有彦、泊まりがけって言っても今からこんな人数で宿なんか取れるのか?」 「ああ、その点は心配しないでくれ。  以前旅行したときに世話になった民宿のおばちゃんに部屋をキープしてもらってるから」 「なんだよお前、実は前から計画してたんだな」 「へへっ、まあな」  みんなでそんな風に楽しい時を過ごした。  しかし、そろそろ限界だ。  見れば翡翠はソファーで丸くなって寝ているし、秋葉は有彦に絡んで 「どうして……髪をこんな色に……染めるんですか?わたし……わかりません」  とかなんとかぶつぶつ文句を言っている。  シエル先輩と琥珀さんは相変わらず湯水の如く飲み続けているのが恐ろしいが、二人とも妙にベタベタと体を触っているのを見ると、多分酔ってはいるんだろう。  俺は大分前から密かにウーロン茶を飲んでいたが、それでも最初の方に飲んだアルコールはあんまり抜けていない。  それにみんな楽しそうだし、そろそろ俺が居なくなっても怒りはしないだろう。  そう考えて、翡翠にタオルケットを掛けてやり、自分の部屋に戻ることにした。 「ふう…今日は大変だったけど、それなりに『良い一日』になったかな」  アルコールだけでなくパーティーの淡い余韻に酔ってか、頭が少しぼうっとする。 「今日はもう寝るか…」  おぼつかない手元で寝間着に着替え、ベッドに入……ろうとしたが、ベッドがなんだか妙にボリュームがある。  まさか、泥棒?と一瞬考えたが、盗みに入った先のベッドで寝るような間抜けな泥棒なんて居ないだろう。  翡翠がベッドメイクをおろそかにしていたことなんて今まで一度も無かったが、今日はパーティーの準備で忙しかったから忘れてしまったのだろうか。 「ま、別に何でもいいか…。寝よ寝よ…」  ぼーっとしたまま布団に入ると、ゴツッと足に何かが当たった。 「うわっ」  と、あわてて布団をめくるとそこには気持ちよさそうに就寝中のアルクェイドがいた。  もちろん、裸だ。  こ、こいつは寝ている時まで俺を驚かせるとは、なんて人騒がせな奴だ。  しかし…黙って寝ていればその見事な顔の造形、均整のとれた身体がとても美しい。  ギリシャの彫刻を思わせるが、今日はアルコールのせいか、特に血色がよく、彫刻にはあり得ない生の輝きを放っている。  …いや、むしろこのベッドに全裸で寝ているというシチュエーションは性の輝きというか、その、ちょっと男の悲しい性が発露してきてしまった。  いかん、アルクェイドは酔って寝ているだけだというのに、劣情を催すだなんて情けない。  というか、そもそもこいつが俺のベッドで寝てるのが悪いんじゃないか。  そう気がつくと、なんだかむかむかしてきた…。  顔をアルクェイドの顔にそっと近づける。  スーーーーッ、せーの! 「起きろ!このばかおんなああああああ!」 「ひゃっ!?うわ、どうしたの志貴?」 「どうしたもこうしたも有るか!  なんで俺のベッドでお前が寝てるんだよ。  そんなに眠いんだったら客間をあけるからそっちで寝てこい」 「あら、わたしは志貴を待ってたのに、ずいぶんな言いようね」 「待ってたって、お前寝てたじゃないか」 「だって、恥ずかしいからベッドに隠れてたらつい寝ちゃったのよ」  こいつは…まったく悪びれない。  というか最初っから悪いだなんてこれっぽっちも思ってないんだろうな。 「うーん、まいいや。  それで、何か用があったの?」 「何か用って…」  アルクェイドは頬を染めている。 「なんだよ?  言ってくれなきゃわかんないだろ?」 「そんなの見たらわかるでしょ!」 「は?」  そんなこと言われたって、何かを持っているわけでもないし、俺は超能力者でもないんだから見ただけで用事がわかるわけもない。 「いや、だからわかんないってば」 「志貴…それ、本気で言ってるの?」 「本気に決まってるだろ?  眠いんだからなんの用か早く言ってくれよ」 「むーーーーーーーーーーーーー」  あ、なんか唸ってる。  と、突然 「        志貴の馬鹿!           鈍感!          にぶちん!         かいしょーなし!」 と一気に吐き捨てると、ベッドから飛び出し椅子にかけてあった服を手にとって部屋から飛び出していった。  …服を手に取り?  アルクェイドは服を着ていなかった?  裸に『見えていた』のではなくて『本当に』裸だった?  じとり、と嫌な汗が背中を流れる。  まさか、用事ってソウイウコトだったのか!? 「アルクェイドっ!  待てっ、悪かった!」  あわてて部屋を飛び出して廊下を見たが、すでにアルクェイドの姿はなかった。 「くそっ、あんな格好でどこに行ったんだ?」  一応玄関ホールまで走り、庭などを見回してアルクェイドの姿を探したが、見つからない。  一旦アルクェイドが本気で移動を始めたら、とても追いかけられるものじゃないから諦めて部屋に戻ることにした。 「悪いことしちゃったな…」  と、扉を開け、部屋に入った。 「おかえり、志貴。どこに行ってたの?」  そこには、意地の悪い笑みを浮かべたアルクェイドが立っていた。 「なっ、お前、いつの間に!」 「えへへー、部屋から出たら志貴の『悪かった』って声が聞こえたからこっそり戻ってきたの」 「戻ってるならそう言ってくれよ。  無駄に走っちゃったじゃないか」 「そんなのわたしをこけにした罰よ、罰」 「む…それは悪かった。謝るよ。  ただな、聞いてくれアルクェイド。  これにはふかーい訳があるんだ」 「なによ訳って?」 「うーん、話せば長くなるんだが、ま、座れよ」  と二人でベッドに腰掛ける。  今朝の出来事、つまり眼鏡をかけたら裸が見えてしまうという現象について説明すると、アルクェイドは真剣な面もちで考え込んでいる。 「だから、さっきはお前がその、裸で居るのに気がつかなかったんだよ」 「なるほどねー。  つまり、死そのものが見える状態を矯正するはずが、その能力のベクトルが変わってしまって、生命そのものが見える状態になった訳ね」  …何を言ってるのかさっぱりわからない。 「あーもう、だから、死という事象を具現化したものが見えてしまうわけでしょ?  それと逆に生命という事象が具現化したものを見るってことはそうかけ離れてる訳じゃないのよ。  なんていうかな、ちょっと方向が違うだけで、隣り合ってるものだから、その力の方向をずらしてやればいいって事」 「うん、で、それと裸が見えてしまうのはどういう関係があるわけ?」 「志貴、あなた生きていくのに服って言うのは絶対必要?」 「絶対といわれれば…まあ、無くても生きていくことは可能だよな」 「そうよね。だから、生命の本質が見えると言うことは、逆に言えば生命に関係ないものは見えないわけ」 「でも、そしたら屋敷の床とか壁とかは生きてないのに何で見えてるんだ?」 「多分、波長が合ってないからよ。 死の線だって意識せずに見えるのは自分の波長に近いモノ、つまり人間とかの線だけでしょ? 志貴は今生命が見えるようになったばかりだから、自分に近い人間の生命そのものだけが見えてるんでしょうね」 「なるほどね。わかった気がする。  で、これは直すことはできないのか?」 「原因がわからない以上、まず無理ね。  ……そんなことよりもさっきから気になってたんだけど」 「ん?なんだよ?」 「もしかして、今日一日わたしたちの裸を見てたの?」 「あー———————、うん、その通りだ」 「やだ、もう。  道理で今日の志貴は何か様子がおかしいと思ったのよね…。  志貴ったら意外とむっつりスケベなのね」 「しょうがないだろ、不可抗力なんだから」 「ふん、だ。  わたし以外の女にでれでれしてるなんて最低よ、志貴!」  あ、また怒った。  うーん、さっきのこともあるし、ここは機嫌を取っておいた方がいいよなぁ…。 「バカだな、アルクェイド。  俺がそう言う目で見てるのはお前だけだよ。  さっきだって、ホントはすごいドキドキしてたのを必死で隠してたんだぜ?」  うわ、自分で言ってて歯が浮くようだ。  ちょっと言葉の選択を間違えた気がする。  これはいくら何でもアルクェイドも納得しないだろう。 「志貴…」  と思ったら、あっさりと感動してる。  頬を赤らめ、目を潤ませてこっちを見つめるアルクェイド。  あーもう、何でこういうところだけ素直で、何でこんなにもかわいいんだよ! 「アルクェイド———」  俺はアルクェイドの顔をそっと引き寄せ、唇を重ねた……。  シャーっとカーテンを引く音がする。  まぶたの裏の色が赤に染まり、光の刺激に眼球の奥が鈍く痛む。 「志貴さま、朝です。どうかお目覚めください」  朝。  いつものように翡翠の声が俺を起こす。  と、昨日の夜の出来事が脳裏に鮮明によみがえる。  まずい!今ベッドの中にはアルクェイドがいる。  アルクェイドと同衾しているところを見られるのは初めてではないとはいえ、恥ずかしいことに代わりはない。  無理だろうがアルクェイドを隠す努力をしようと布団をさりげなくアルクェイドの方へ……って、アルクェイドはもう居なかった。  ちょっと寂しい気もするが、とにかくほっとした。  それじゃあ起きようか、と考えていたところに翡翠のものではない声がかかる。 「こら志貴ー、朝だぞー。起きろー」 「おはよう…って、何でお前が翡翠と一緒に起こしてるんだよ」  挨拶をしながら眼鏡をかける。 「おはよー志貴。  久しぶりだねーっ!  志貴の寝顔を見てたら翡翠が来たから、一緒になって起こしたんだよ」 「なんだお前、もしかして俺の寝顔をずっと見てたのか?」 「うん。翡翠と一緒に見てたんだけど、志貴って寝顔もなかなかかわいいんだねー。  ね、翡翠?」  翡翠も若干頬を染めてこくんと頷く。  …ものすごい恥ずかしい。自分ですら見れない自分の秘密をのぞき見られた気分。 「でも翡翠ってすごいね。  翡翠が『そろそろ起きられます』って言ったらホントに志貴起きたもん」 「ええ、志貴さまの眠りは深いですから寝ているときは彫像のようなのですが、起きられるときは肌にだんだんと生気が戻ってくるのでわかるんです」  翡翠はますます恥ずかしそうだ。  というかそんなに観察されているなんて、俺の方が恥ずかしい。  何とかして話を逸らさないと、ますます俺の恥ずかしい秘密を暴露されてしまいそうだ。 「あー、そういえばアルクェイド、お前の着てる服はいっつも代わり映えしないなぁ。  たまには白以外の服も着ないのか?」 「いいじゃない、わたしは白が好きなんだから」 「それにしたって、毎回デザインまで同じに見え——————」  —————見える?  アルクェイドの白い服も、翡翠のメイド服も、見える。 「治った…。  アルクェイド、治ったよ!」 「治ったって、何が?」 「何って俺の眼に決まってるじゃないか!  昨日の夜お前に話しただろ」 「昨日の夜って、わたし昨日は志貴に会ってないわよ?  それどころか、最近はずっと期末テストで忙しいからってあんまり会ってくれなかったじゃない」  アルクェイドは何を勘違いしてるんだ? 「何を言ってるんだ、お前。確かにテストの時はそうだったけど、昨日はパーティーがあって、俺や翡翠とそこで会ったじゃないか。  ねえ、翡翠?」 「いえ、パーティーは今日でございますが」  翡翠までおかしな事を言っている。 「今日って、パーティーはもう終わった……」 「ははぁーん、志貴、わかったわ。  それはね、夢よ、夢。  一日早い誕生日プレゼント、ちゃんと届いたようね」 アルクェイドが満面に笑みをたたえて言う。 「誕生日プレゼントって、どういう事だよ?」 「ほら志貴、覚えてない?  わたしたちが出会った頃のこと。  ネロを倒したときにお礼してあげたでしょ?」  ネロを倒したとき…。夢…。  ——————————思い出したっ! 「まっ、まさかアルクェイド、また夢魔か!?」 「ぴんぽーん、大正解!  覚えていてくれて嬉しいわ」 「嬉しいわってお前、そのせいで俺が昨日どんな目に遭ったと思ってるんだ!」 「あら、昨日じゃないわ。夢だもん」 「どっちでもいいんだよ、そんなことは。  お前のせいで俺は———————」  ———言えない。  まさかみんなの裸が見えた夢だなんて言えるわけがない。 「あーもう!  とにかく夢魔はもう使うなって言っただろ」 「ねーねー、どんな夢だったの?  ね、こっそり教えてよ」 「それはその…なんだっていいだろ」 「あら、翡翠だって志貴がどんな夢見てたか知りたいよね?翡翠ちゃんも登場したみたいだし」 「はい、知りたいです志貴さま」  二人は期待に満ちた眼差しでこっちを見る。  アルクェイドはそれがどんな性質の夢なのかわかっているのでなおタチが悪い。 「………………」 「ほらっ、志貴、早くっ」  嬉しそうなアルクェイド。  こいつ、完全にあそんでるな。 「………………」  翡翠はずっと俺の言葉を待っている。  あーーーーーーーもう、知らん!  行き場を無くした俺は、がばっと布団をかぶってこう念じた。  夢なら、覚めてくれ! /END